駒々亭痴歌丸の波瀾万丈伝


【駒々亭痴歌丸 PROFILE】
駒澤大学落語くらぶ   本名:野村隆
生年月日:1956年9月20日
出生地:茨城県筑波町(現在のつくば市)生まれ
学歴:筑波町小田小学校→筑波町筑波東中学校
 →茨城県立土浦第三高等学校→私立駒澤大学経済学部経済学科
職歴:22歳 茨城県警察官→24歳 ユナイテッドツアーリングフィジー社
 →27歳 自営喫茶店→30歳 日本旅行専属添乗員
 →32歳 オセアニア地区ランドオペレーター
 →36歳 リージェントホテルオセアニア地区営業支配人
 →38歳 脱サラ、独立
現在:  ●株式会社アメニティサービス 代表取締役
 エアコン洗浄事業専門店として
 平成7年開業。今では全国でも屈指の施工会社。
 ●日本エアコンシステム有限会社 取締役
 日本初の「エアコン洗浄の技術スクール」を平成12年開講、
 エアコン洗浄用用品「壁掛け用ホッパー」などの
 業者向けベストセラー商品を数多く開発販売、
 エアコン洗浄の全国チェーンを平成17年に開始、
 現在加盟店舗31店
趣味:テニス、将棋、落語を聞きながらのドライブ・就寝
好きな落語家:昔は立川談志、今は古今亭志ん朝

【駒々亭痴歌丸のそれまで】

本名・野村隆、1956年9月20日茨城県筑波町(現在のつくば市)生まれ、 三人兄弟の末っ子の三男坊。小学校時代は給食の時間が大の苦手、 ジャガイモ以外の野菜は全く食べられない。 注射をみると貧血を起こし倒れてしまう。 鉄棒の逆上がりが出来なくて「塩引き」と担任の先生にあだ名をつけられる。 痩せっぽちのもやしっ子だった。そのくせ内弁慶、近所の弟分を引き連れ、 毎日暗くなるまで遊んでばっかり、勉強のできない小学生だった。 中学時代の夏休みに近所の大学生のおにいちゃんから英語を習ってから、 勉学の面白さに目覚める。スポーツでも卓球部キャプテンを務める。 英語のコンテストや長距離走では、校内一の成績をおさめ、 その名をつくばの峰々に轟かせる。

この頃、一世を風靡したコント55号に影響を受け、笑いの世界に憧れた。 高校時代には校内一のワルの集団「応援団」に無理やり入部させられるも、 先輩の前で得意の「モノマネ」や「小話」で、ひょうきんものを演じる。 大学落研への入部はすでにこの頃から考えていた。

昭和50年4月、大学入学。立川談志に傾倒する。新宿紀伊国屋ホールでの 月例「談志ひとり会」はかかさず鑑賞。「阿武松」で落語を演じる事の 面白さにのめり込む。「第10回駒大寄席」は「紺屋高尾」でトリをとる。 一つ下の学年に現在プロの落語家桂竹丸師匠がいるが、彼の才能の豊かさに比べ、 茨城なまりが抜けず、落語など演じることへの不向きさを思い知らされる。 コント作家志望ではあったが、大学卒業と同時に笑いの世界への夢を断念、 世間並みに就職することになる。

大学卒業後は、いわゆる「でもしか警察官」。就職難になって、やりたいものも 見つからず父親のすすめで、そのまま茨城県警に就職。2年後、旅行会社への転職を 目指し、退職。24歳の5月に旅行会社の現地駐在員として、 南太平洋のフィジーに駐在する。今でこそメジャーとなった観光国であるが、 当時は直行便の就航したてで日本人2人目の駐在員として 日本人観光客の案内業務をする。現地人並みの安い賃金の中、 チップやショッピングコミッション、オプショナルツアーなどで稼ぎまくり、 3年後の27歳で帰国する。その資金を元手に借金をして下北沢に飲食店 「フィジーアイランズ」を開店。ところが、ここで現実の厳しさを心底味わう ことになる。売上はあがらず、貯金も底をつき、生活苦に、、、。そんな中、 「ココナッツ騒動」が勃発するのだった。


ココナッツ騒動


「手作りココナッツ」の販売に勤しむ伊蔵さん
駒澤大学落語くらぶ  




新商品「ジャンボ手作りココナッツ」
駒澤大学落語くらぶ  




ココナッツに蟻が行列を作る
駒澤大学落語くらぶ  
「平成13年度発行 ほほえみ35号」より

あの忌わしい出来事からもう20年近くがたってしまった。 僕は先輩の伊蔵さんと渋谷駅構内で露天販売をしていた。 商品は2人のオリジナル「手作りココナッツ」。 手芸用品で作った椰子の木のミニチュア版に、丸いビニール吸盤をつけたもの。 10センチの椰子の木に4枚の葉、2個の丸いヤシノミ。 机の上や車のボンネットに置くとすご〜くカワイイ。 1個500円のこの商品を20個程まとめてアクリル板に吸着させる。 露天とはいえども、このキュートな商品に通行人が足をとめ、時には買ってゆく。 若者も、主婦も、サラリーマンも、。 しかし時々警備員も来た。 こういう場合は早々に店を閉め退散する。 そして30分後に戻り、即開店できる。 便利な店鋪だ。

伊蔵さんは積極的に外商もした。 商品が吸着しているアクリル板ごとをひもで首に掛け、まるで駅弁売りのようなの移動販売である。 ハチ公広場やセンター街で大きな声を出し 『「手作りココナッツ」いかがですか〜!』。 周りの人は何ものかと逃げ出す人やら、大笑いする人。 ひややかに見る人もいた。 でも全般的に販売成果は順調だった。

 ある時、東急ハンズの仕入れ担当の人が来た。 『これはウチにおいたら売れるヨ』と言う。 即、商談は成立し渋谷店等で扱うことになった。 『よしっ、一気に攻勢を』と次の手を打つ。 新商品「ジャンボ手作りココナッツ」の誕生である。 この商品は吸盤のかわりに本物のココナッツ(ヤシノミ)を置き台にした、高さ1メートル位のものである。 まずはココナッツをノコギリで縦に3分の1程カットする。 そして、手作りココナッツの幹が入るよう上部に穴をあける。 サンプルのできばえは室内インテリアとしてそれはそれは素晴らしい代物であった。 『これは間違いなく売れる!!』 早速、本物のココナッツをフィリピンから1,000ヶ輸入した。 一時的に先輩の阿久津さん宅に置いてもらう事にした。 狭い庭に威風堂々とココナッツの山がそびえ立つ。 商品は1個当たり3,000円位の利益を見込んだ。 1ヶ月で完売すれば300万の利益。 うひょう!!貧乏からおさらばできる。 その晩は先輩たちと前祝いとなった。

幸せの絶頂期・・・と同時にそれは悪夢の序章でもあった。 いざココナッツを取り出し商品製作にかかると、問題が発覚する。 ココナッツの固い殻の中のジュースが臭く、白い実が生のままいつまでも乾かないのである。 あえなく商品化出来ず宙に浮いたフィリピン産のココナッツは阿久津さんの庭で宝の山からゴミの山に変わった。 しばらくすると、なさけない事に腐り始めた。 虫がわき、アリが行列を作る。あげくの果て、近所から異臭がするとの苦情で警察官も駆けつけた。 それ以来、阿久津家の人々は近所から白い目で見られるようになり、本人はすっかり落込んだ。 その後、廃棄業者にお金を払い引取ってもらったと聞いた。 ココナッツと共に我々の運気は去ってしまったが、それまで順風満帆だった阿久津さんの人生をも狂わしてしまったようだ。


【駒々亭痴歌丸のそれから】

結局、「フィジーアイランド」は3年で閉店した。結局、店をやったのに借金ばかりが残った。営業中の極度のストレスから健康も害した。妻とも不仲となった。自暴自棄で恥ばかりかいていた3年間だった。その後は、旅行業界に身をおき、海外添乗や営業マンとしてコツコツと借金を返済しながら、しっかりと社会勉強した。そして平成7年、不況のさなか、勤めていた会社は倒産する。この年は神戸で大地震がおき、東京の地下鉄ではサリンがまかれた。倒産をきっかけに、それまで転々としていた旅行業界に別れを告げる。私生活では離婚し最愛の子供とも別れることとなった。まさに人生の剣が峰に立たされた。今度こそ最後の勝負!と有り金300万円をつぎ込み、エアコンクリーニングのフランチャイズに加盟。ところがなんとこの会社は脱サラ人間を食い物にする悪徳フランチャイズだったのだった。「もうダメだ、人生これまで?!」・・・・・ これからは奇跡の起業物語「脱サラはつらいよ」をご覧下さい。
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